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恋するばいた

そのどっちもが、マリ子の本当の日常でした。 プチ小説・毎月25日更新

甘い夢

 

 あたしという存在は、壮大で緻密な宇宙のからくりのほんのちいさな一部にすぎない。白い紙に極細のボールペンで点を打ったそのちいささよりももっとちいさい。百科事典のひらがなひと文字よりも、ジャンボジェット機のいちばん重要でないネジよりも、もっとささやか。地球の人口は爆発的に、生物としては異常な加速度で増えている、そのうちのいくらかが自殺や人殺しをするのも、あたしが死にたいと思うのも、宇宙の摂理の一部にすぎない。

 火曜日、午後3時前、快晴。新規の客を待ちながら、道玄坂のカフェの2階から通りを見下ろしている。小走りの女、手招きする男、携帯を見つめる黒人、触り合う男女、食べ歩く高校生……。夥しい数の人は、観察すると目眩がする。あたしは右手薬指の小さな傷を触った。あたしは確かにここにいるだろうか。歩く人々は、大きなひとつの流動体のようだ。分からない。分かるのは、かすかに疼く傷の痛み。あたしは確かにここにいるだろうか。ばかばかしい。感傷に引きずられる。

 たった2時間くらい前のことだ。あたしは道男の部屋にいた。卓袱台のノートパソコンを睨みながらマウスをカチカチやる道男のあぐらの、白い内股がきもちよさそうだった。頭を載せてみた。いい匂い。あったかい。もっとくっつきたい。そう思ってTシャツの裾から頭を突っ込んでみると、「邪魔」と一言、道男が冷静に言い放った。あたしは道男のおなかをチュッとひと吸いしてあぐらから頭をおろした。卓袱台の下の雑誌を取ろうとしたとき、昨夜から指に刺さったままの棘が残っているのに気付いた。

「ねえ棘、取れない」

 手を差し出すと、やっと道男はあたしに、あたしの薬指の第二関節の上の棘に意識を移してくれた。それは本当に、自分ではうまく取れなかったのだ。道男は棘の指をぐっと押さえつけて、摘んだり引っ掻いたりした。それでも取れなかったから、今度は爪ではさんで皮膚を破るようにした。痛かったけど気持ち良くて、息が漏れそうになった。

「キスして」

 と言いかけたとき、道男が「取れたよ」と言った。あたしの言葉は跡形もなく消えていた。角質レベルで見つめてくれていた視線もなくなってしまった。その代わり、棘があったところに小さな赤い傷ができていた。きっとすぐ塞がってしまうような、小さな傷だった。

 それからすぐ電話が鳴り、事務所から仕事の依頼を受けた。シャワーとメイクをして「行ってきます」と言うと、道男は顔を上げて「うん、いってらっしゃい」と売春婦の出勤を見送った。あたしは道男の唇にやっとキスをして、家を出た。

 この皮膚のなかのものは、死んだら魂と一緒に無になりたい。脳死しても臓器提供なんか絶対しない。献血さえしたくない。そんなものは偽善だ。自己欺瞞だ。輸血されるくらいなら死んだほうがまし。なにも残さず、きもちも残さず、孤独も残さずこの命を終わらせたい。この皮膚のなかのものはできるだけ高温で完璧に焼いて、焼き残ったスカスカの骨はぜんぶ道に食べられたい。あの人の栄養になって、命の一部になる。甘い夢だ。

 肩を触られる。振り向くと、今日ひとりめの客が言った。「まりこちゃん?」まわりっくどそうな冴えない中年。あたしは感傷から這い出し、夥しい数の人々の一人になり、「はい、初めまして」と彼が安心するような少しおどおどした笑顔を作った。




Stanley

小菅由美子

★1977年生まれ。
愛知県出身。日本大学芸術学部文芸学科卒。
mixiもやってます。
★ホームページはこちら→らららん。


TAGS: 恋愛とセックス


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