
第九回 「Rさんの思い」
RさんがTAOを訪れたのは、二年前の夏のある日。彼女は、当時30歳になったばかり。神戸のアパレル会社に勤務し、得意の語学を生かして、海外業務のマネジャーをしている。真っ白なスーツを、品良く着こなして、いかにもキャリア・ウーマン、といったタイプ。三ヶ月前に彼と別れた。その彼とは、女子大時代からの親友の紹介で知り合い、六ヶ月ほどの交際で、体を重ねたのは、5回だという。女子大生だった21歳の時に、憧れの男性と、セックス寸前までいったが、彼女の体がこわばって、その男性は、思いを達することなく、その場は終わってしまった。二回目には、挿入らしい行為はあったが、それがセックスだったのか、彼女には判らなかった。結局、お互いに、気まずい思いを残して、一ヶ月ほどで、別れてしまった。
四つ年上の彼は、処女だと思っていたらしく、優しい愛撫で体を開こうと努力しているのが、彼女にも感じられた。レストランで食事をしたり、お酒を飲んだりしている時には、心も開いて楽しい。でも、それは、彼とRさんの前にあるテーブルが、お互いの距離を保っているからで、外に出て、腕を組んだり、体を抱き寄せられると、自分の体がこわばってくる。男性に対し、恋心は抱くし、セックスに対しても、ロマンティックな憧れはあるのだが、性的に触れられたりすると、体が震えたり、強く奥歯を噛み締めてしまう。最後の防護壁のような衣服や下着を剥ぎ取られると、自分の皮膚が、それに替わる鎧のようにこわばってくる。セックスに際しては肢が開かない。抱き合った後には、疲れと虚脱感が彼女を襲う。彼からのデートの誘いも、いつの間にか、疎ましくなってゆく。
仕事の上の付き合いは、何でもないのだが、飲み会や仕事仲間とのプライベートな付き合いは、息が詰まる思いがする。仕事が、Rさんと他者との距離を程よく保っている。彼と二人のときのテーブルのようなものかもしれない。人との距離が狭まれば、いつも息苦しくなる。胸いっぱいに息が充満して、吐けなくなる。
初めての生理は、ドロドロとした、ぬめりの記憶から始まった。毎月のぬめりは、痛みとともにやってくる。生理痛は、思春期以来、ずっと彼女の悩みになっている。自分の体内の奥深くに、自分では制御できない不気味な生き物が、うずくまっているような感じがする。女の体を嫌悪するようになった。そんな自分が嫌で、自分の心を変えようと、心理学や精神世界の本を読んだり、トレーニング・ジムに通い、セラピー・スクールで瞑想をやり始めて、8年になる。しかし、息苦しさは、いつの間にか、「生き苦しさ」になっていた。
Rさんの父は、祖父の代から引き継いだ会社を経営している。父には愛人がいて、社用や接待などを口実に、家に帰らない日が度々ある。母は、豊かな生活と、世間からの羨望を犠牲にするつもりはないらしく、表面の夫婦仲は、繕っているのだが、一人っ子のRさんは、母の愚痴の聞き役だった。家庭には、いつもひんやりとした空気が漂っていた。
母は教育に熱心で、Rさんが赤ちゃんの時から、ベビースイミングに通い、幼稚園・小学校時代には、母親の車で週に四日、習い事や、早期教育に通っていた。ミッション系の女子高では、「肉体は下等なもの、魂は崇高なもの」と刷り込まれた。大学は神戸女学院、典型的なエリートコースを歩み続けて来た。
Rさんは、自分の「生き苦しさ」の理由が、はっきり判っている。でも、そこからどのように脱却すればよいのか、長い間もがき続けてきた。こんな彼女を、いつも支えてくれた女子大からの無二の親友が、できちゃった結婚の末、親子三人の家庭に落ち着いた。Rさんとは全く違って、男性経験も派手で、友人たちからは、遊び上手な女だと、噂されていた。そんな彼女が子どもを抱いている、その輝くばかりの笑顔には、無償の愛があふれている。彼女のマンションに遊びにゆくと、乳臭い赤ちゃんの匂いが、鼻腔を満たし、夫婦の笑い声が、心地良くRさんの心を慰める。
「私も、こんな家庭を築きたい」
その思いが、Rさんを、TAOに導いた。

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