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Choise

心が変われば身体に変化がおこる! 風子さんがオーガズムをえるまでの記録

新しい生活が始まり、子ども達の遊び相手に。

 

幼稚園を辞めて、4月いっぱい「絶望」という真っ暗な淵をただよってから、 5月には心理カウンセリングを受け始めた。 そして、6月には私のことを心配した家族に呼び戻されて、実家に戻った。 この実家が、これから大変になってくる。

実家に帰ってからも仕事はせずに、資格の勉強を続けていた。 大学の図書館に行ったり、資格取得に必要なピアノの練習にあけくれていた。 ピアノの練習も、とても苦痛だった。

7月ごろだったか、兄の嫁、つまり義理のお姉さんが出奔した。 彼女は半年前くらいから、ほとんど夜、外で友達と飲み歩くという生活をしていたらしい。 兄とも、完全に仲が悪くなっていた。

同じ女として、一度「だめだ、こいつは」と思った男性とは近くに寄りたくないし、触られるのもいやになるのはわかる。 夫婦だから、子どもがいるから、という理由で、嫌いな男の人と暮らしていくなんて、かなり辛いことだと思う。

でも、兄夫婦の子どもたち、私にとって姪っ子と甥っ子は、自分の母親が機嫌が悪くなり、 父親とケンカばかりするのを見るのはとても辛かったろう。 小さい頃の私がそうだったからだ。

人がケンカするのを見るのがいやだったのは、小さい頃、親のケンカを見て、 このまま家族が壊れてしまう、自分はどうなってしまうんだろう、という恐怖感でいっぱいになったからだ。 周りには親以外、頼れる大人はいなかったから。 たぶん、兄もそうなのだと思う。

子どもの頃、毎日おびえながら暮らしたから、自分は親のようにはケンカしない、と決めたから、 なるべく波風を立てないで夫婦として暮らしていたのだろう。 でも、大人同士、人間同士ならば、いつかは意見の衝突はある。 そういうものも、兄は避けていたんじゃないか。 私と前につきあっていた彼が、両親への不満について、話し合うのを避けたように。

そして、義理の姉は結局7月末には家を出ていった。 それからは、うちと義理の姉の実家とで、いろんなやりとりがあり、 主に子どもたちをどうするのか、ということが話し合われた。

この頃、緊急避難として、うちに子どもたちは来ていた。 私は、にわかに兄の子どもたち二人の相手をすることになった。 仕事も何にもしていなかったからだ。

子どもたちは半年も大人たちのイザコザに巻き込まれて、極度に緊張していたからか、体もやせて顔も真っ青だった。 食事も、ほとんど毎日、シリアルやインスタントフードで暮らしていたらしい。

そして、子ども達と一緒にお風呂に入ったとき、甥っ子の背中に丸いやけどの跡があった。 今でも、あれがなんなのかはわからない。 でもあの時は、どう見てもたばこの火を押し付けた跡に見えた。

おねえさんがやったのか、それとも兄がやったのか。 二人ともたばこを吸うし、真実はわからない。 確かなことは、それを見たうちの家族が、子どもたちはおねえさんには預けられない、と感じたことだ。 おねえさんは、年齢が下の甥っ子(当時5歳)だけでも、引き取りたいと言っていた。 でも、仕事も見つかっていなく、話をした父や兄によると精神的に相当まいっているらしく、 とても子どもたちの面倒まで見れないだろう、と判断をした。

私は、そういえばほとんど彼女とは話さなかった。 話しても、私にとても気をつかっているのがわかるし、見ていて痛々しくなるくらいだった。 いいお母さん、いい嫁、いい妻を演じている人のように見えた。 それを演じられる人がほとんだだと思うが、彼女は重荷をおろしたかったのだと思う。

そして、結局子どもをめぐって、兄夫婦は裁判になっていった。

毎日の生活としては、子どもたちが学校や幼稚園から帰ってきたら、兄がうちに二人を連れてきて、 夕飯を母親が食べさせ、お風呂には私が一緒にはいり、仕事を終えた兄もうちで 夕飯を食べてから、近くにある彼らのマンションに帰って寝る、というパターンになった。

一気に生活が変わった。 子どもたちは比較的私になついてくれて、一緒にいて私も楽しかった。 でも、心の傷は大きいようで、時おり、「大人はあっちへ行け!」と怒鳴ったりした。 目も死んでいた。 そして、時に、大人の機嫌を伺うような話し方をした。

もう、見ていて辛かった。 うちの家族も、あちらの家族も、みんなそれぞれがつらかった。 うちの母はあまり人の心の機微がわからない人だが、実際の問題処理にはすごい力を出す人だった。 つまり、子どもたちに夕飯を食べさせ周りの世話をする、という点においてフルパワーで動いていた。 こういう人を、世の中では、「できる人」っていうんだろうなあ。 後で母親は「私は貧乏くじひいたわ」とブツブツ言っていたが・・・。

おねえさんにも、母はただ一人くってかかっていた。 母親として自分の息子である兄がかわいくて仕方なかったのだ。

「あの子(兄)に、こんな仕打ちをして!」とか

「兄に食事を作らなかったり、男友達とであるいたり!」

とさんざん私は母親から、おねえさんの不満を聞かされた。

今でも、ふとした時に、「女の人は悪口を言うもんだ」と思ってしまうのは、 こういう母親と長年暮らしたからだと思う。 「女友達なんて、決して長続きしないんだよ。」とか、さんざん聞かされてきたから

誰か女の人と仲良くなっても、この人も影では悪口言ってるのかな、とか怖くなって、つきあいが深まらない。 まあ、今はもうそれはそれでいいかなとも思ってる。 こういうことって変わっていくものね。

で、そんな新しい生活が始まり、私は子どもたちの遊び相手になった。 こうなったら、思いっきりやりたいことをやってやろうと思った。 大きい紙を買ってきてテープでとめて4畳半くらいの大きさにして、 まわりに絵の具をいれた容器を置き、はだしになってその絵の具を足につけて、 足で絵を描くっていうこともした。 子どもたちの心の解放が少しでもできたら、と思ったからだ。

この足絵の方法は幼稚園で見て知ったのだが、とても非日常的で足の裏のヌルヌルした感触もよくて、 頭がいかれちゃうくらい面白い。

お風呂に入るときには、子どもたちのやりたいようにさせていた。 母親ならば怒られるであろう、シャワーをだしっぱなしにして、シャワー祭りをしたり、 透明のビニール袋を買ってきて、絵の具を溶いて色水遊びをしたり、 100円ショップでおもちゃをガンガン買ってきて、思いっきり遊ばせたり。 裸になって、やりたいことをやって、大きい声で笑って、1時間くらいはお風呂にいた。 最初は一緒に遊んでいたけど、同じテンションでいるにはとても疲れるので、勝手に遊ばせていた。 それがよかったらしく、彼らはどんどん自分で遊びを広げていった。

お風呂は、あるときは色水を売るお店屋さんになり、 あるときは風呂のふたを立てかけて背もたれにしたビーチリゾートになり、 あるときは船になって、私は船長になり、未知なる島に上陸したりした。

あの時は、自分がやれることを必死でやっていただけだが、あれは今考えると、 まるでプレイセラピーのようなもので、子ども達の心の解放にはとてもよかったのだと思う。 そして、幼稚園で1年間働いたことが、とても役に立っていた。

そんな風に、子どもたちと一緒にいるとき、私は生きているなあという実感をもてたし、 何よりも楽しかった。 でも、昼間、図書館にいたり、ピアノを練習していると、まるで時間が止まったように思えて、 またしてもお先真っ暗になっていた。

このまま、私の人生は、兄の子どもたちの面倒で終わってしまうのか? このまま家族の一員としてだけの生き方しかできないのだろうか? という不安がおそってきたのだ。




Stanley

桜庭風子

セクシャリティーに関するコラムニストの卵、 現在35歳。 30歳をすぎてからいきなり人生が変化し出し、我ながらとてもダイナミックな体験をしてきました。 もっと多くの人が、セックスや性と自然に触れ合えるようになることを願っています♪


TAGS: 恋愛とセックス


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