源氏に対して五十七歳の女官、典侍(ないしのすけ)が歌を贈ります。
君し来ば 手馴れの駒に 刈り飼はん
さかり過ぎたる 下葉なりとも
頭の硬い国文学の先生たちは、これを次のように現代訳しています。
「あなた様がお越しになられたら、お召しの馬に飼い葉を与えましょう。いささか盛りを過ぎた下葉ですが」
しかし本当は、次のような意味だった。
「あなた様の元気のよい肉棒を私に貸してください。老いの身とはいえ、見事下のお口でくわえてみせましょうぞ」
源氏がこれに返歌を出す。
笹分けば 人がとがめむ いつとなく
駒なつくめる 森の木がくれ
国文学の先生の訳は、
「そうはおっしゃいますが、私が野笹を分けて、あなたの家に行ったら、たくさんの馬が森の木陰に潜んでいて、なんで来たかと咎めるのではないでしょうか」
ところが本当は、
「私のチンポコがあなたのオマンコをかき分けて入ろうとしても、セックスフレンドの多いあなたのこと、みんなであなたのオマンコをめがけて入ってきて、私のチンポコなど他の男どもに非難されるのではないでしょうか」
紫式部自身が、現実にある男に贈った歌は、
おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの
空おぼれする 朝顔の花
国文学としての訳は、
「明るいか暗いかはっきりしない空ですが、心奪われるような見事な朝顔が咲きました」
本当は、
「あなた様のお越しを待ち焦がれていました。昨晩はあなた様に抱かれて魂は宇宙に飛び、私のオマンコは蕩けんばかりでした」
それにしても学者サンの解釈と、あまりにも違うではないか! 特にこの朝顔の歌など、国文学的解釈では、面白くもない白痴的な歌だ。ところがホント訳になると、それこそ連想、隠喩みだらの骨頂となり、これなら世界大文学の価値が納得できます。
まだまだ源氏のみだら歌は続くのですが、なんとしても数が多すぎます。あと二つだけきわめつけの「本当訳」だけを紹介しましょう。
「私が満足しないうちに、あなた様のチンポコは萎んでしまいますね。でも白い液体をたくさん注いで下さったら、許してあげましょう」
「あなたのオマンコの中に私のチンポコからの白濁汁が添えられました。これが男女の契りというものでしょうか」
白露が精液の隠語。猥褻という宝石箱をひっくり返し、なかでもキラキラ光っている粒を一つ選んで拾い出せば、それは言葉、日本語なのだ。日本語があってこそ、みだらの奇跡が成立する。みだらの連想を不快とするならば、源氏だけでなく、日本の古典、神話はどれも読めなくなってしまいます。
津田左右吉は、イザナギ、イザナミの「くにつくり」の神話について、このように述べています。
「日本の神々は、超人的な神というより、最初から生身の人間を身体をもって登場する。国土の起源についての説話は、世界中たくさんあるが、生身の人間の生殖行為として語られているものは、日本以外、他に例を見ない・・・・」と。
日本人は、世界に例を見ない、実に不思議な民族なのだ。どう言う意味で不思議かといえば、SEXという、実に即物的な男女の行為を、神話の時代からロマンに仕立て上げる才能を持っていたという点です。そして、そこにこめられる「みだら」の美意識を、高らかに歌いまくっていたのです。源氏物語の歌にチンポコやオマンコやフェラチオシーンが出てくるなんて、思いもしなかった。きっとあなたもそうだと思うことでしょう。
それにしても、オマンコで私たちの国が生まれたなんて、実にいいではないか! 今度書きなおす憲法に明記しておくべきです。そうすれば日本が根本的に平和国家であることを、世界中の人々が認めてくれるだろう。呆れながらも・・・・。
「みだらの構造」林 秀彦・草思社より
[AGE]忘れました
[STYLE]174cm 64kg スリムで筋肉質
[FAVORITES]現代美術/山歩き/倖田來未/コリンヌ・リシェヌ/吉行淳之介/ウロ・クレー/ドゥビッシー
[SEXUALITY]Bisexual
[PROFESSION]セクシァル ヒーリング TAO/セックスセラピスト(自称)/気功・東洋療法士
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